【この記事懺悔の気持ちで書いてます💦】
親として自分の考えを入れずに、サラル・ド・ウユニのように
心のスペースを広げ「子の心にあるもの」を、ただ「ある」と理解し
子供の話を聴くことが、親が子に向けうる最大の愛情だ💓
「うんうん!それはよ~く分かるよ。
私も出来ることならそうしたい。」
でもね・・・
「子供が反抗期で何を聞いてもー」
「ババアうぜー、あっち行け!」
「あんたには関係ない」
「うるせー、黙れ!」
「死ねクソババア!」こんな風なんだよね。。。
いや、まだそうやって返事してくれるのは良い方で
うちは「完全にシカトされる」「目も合わせない」
「部屋に引きこもって出てこない」なんだよ
だけど、それもまだマシな方で
うちの子は話しかけて興奮すると
「近くにあるハサミや包丁を持ち出して暴れる」
「酒やドラッグに走った」
(う~ん・・・そうなるともう医療的な介入が必要だね)
な~んていうこともあるかもしれません(涙)
あるいは、包丁を持ち出して親の方が
「これで私を刺して殺してくれ!楽にしてくれ!」なんて
狂気の中に子供に救いを求めるなんて言うことも
あったかもしれない・・・
あるいは出来ることなら最初からやり直したい・・・
そんな風に感じることもあるかもしれない。
そうだよね、分かるよ分かるよその気持・・・
私も「死ねくそババア」って言うのは挨拶の言葉か?
って考え直したほうが良いかもって、思ってた事あるし
この記事はある意味懺悔の気持ちを込めて書いてるからね(汗)
そりゃね~・・・
子供の話を聴ける環境にあるのが理想だけど
でも、それが叶わない場合もあると思う。。。
そんな時には親子関係がどんな状態にあってもね、
親は子供の今の状態を無条件に受け入れる!
それが親が子に向けうる最大の愛情だ思う💓
言葉を交わすことだけが子供に対する愛情だって限らないしね✨
お恥ずかしながら我が家も親子の会話は多くない。
いや、場合によっては私が朝仕事に行く時に
「行ってくるよ!ご飯は冷蔵庫と鍋に用意してある」
「・・・」そんな独り言を言ったきり
娘はバイトに出かけて、娘が帰宅していたことを
朝になって知るなんて言うこともしばしばだからね
(一言も会話がないじゃん・・・笑)
もちろん、「いつでもチャンスが有れば虚心坦懐に子供の話を聴きたい
という気持ちは忘れずにいよう!」とは思ってるけど。。。
でもね、今はそんな子供との関係性に満足してるんだ。
彼らの選択と人生を全面的に信頼してるからね
「こうでなきゃいけない!」「ああしなさい、こうしなさい!」
なんていう常識に照らし合わせた子供への執着を一切手放してみたら
一番自由になったのは私自身だったことに気がついたからね!
(以下、草薙龍瞬さんの「大丈夫。あのブッダも家族に悩んだ」より抜粋)
親というのは、たしかに哀しい身の上かもしれません。一生懸命育てて、
「子どものため」に身も心も捧げてきたのに、いつの間にか子どもには疎まれ、
やがて手の届かない「遠い」存在になってしまいます。
きっと多くの親が、子どものことで悩み、心を痛め、
すれ違いやわかり合えない苦しみを、経験していることでしょう。
これまで、親は「子どものために」悩んでいると思っていました。
子どもが変われば、問題は解決できると考えてきました。
でもひとつだけ、今思えば、そっくり抜け落ちていたことがあったのです。
それは「自分自身の心を正しく理解する」といという心がけです。
子どもに期待して不満を募らせるよりも、まずは自分の心と生活を整えること
──つまりは「親が自立する」ことです。
「子のことを心配してきたつもりだったが、これは自分の執着だったかもしれない。
子どもには子どもの人生があるのだから、執着しすぎないように気をつけよう」
そういう心がけができたら、かなりよい親──というより、素晴らしい人間です。
子どもはもともと「親が好き」なところから、人生を始めています。だから、
親が執着さえしなければ、それなりによい関係が育っていくものなのです。
だから、これからは「よい親」をめざしましょう──子どもに執着しない。
自分の心に苦しみを作らない。快適な生活を自分で工夫して作っていく。
そうして親自身が〝自分にとっての前〟を向いたとき、
心の中に〝大きな愛情〟が生まれるのです。それは、
家族よ、みんな幸せであれ、という明るい願い──仏教にいう慈しみ──です。
(一部抜粋終了)
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