【私の物語をDeleteすると?】
私たちは通常自分自身を世界と切り離された
独立した自己と認識している。。。
では一体自分とは何なのか?
仕事柄ご長寿の方とお話する機会も多いけど
彼らの多くは、まるで昔話の語り部のように
「私の物語」を何度も何度も語ってくれる。
でも、それはご長寿たちに限ったことでなく
私たちも多かれ少なかれ、過去の出来事を重要視し
「私の物語」を何度も語っている。
「私の物語」は自分を定義する様々な
頭の中のセリフと映像で出来ている。
そう!それは頭の中の映画館で限定上映される・・・
あなたはどんな物語で
自分を定義しているだろうか?
例えば、母は繰り返しこんな「私の物語」を
話してくれる💓
学校の勉強は嫌いだったあ~。
中高短大と一貫校に通ったから
受験勉強なんて一回もしたことなかったよ・・・。
でも、不思議なことに成績が良いと思ってた
短大の時の同級生が新学期に単位落として
居なくなったけど私は大丈夫だったな~。
中学校の先生になる気はなかったけど、
2000円払って家庭科の教員の免状を買ってみた・・・etc
でも一体80歳を過ぎた母の当時の事を
知る人は何人残っているだろうか?
家庭科の教員の免状を出してくれた先生は
恐らくこの世に居ない可能性が高いだろう
祖母も祖父も、もう他界している。
それに、母の友人の殆ども早くして
彼岸を渡った人が多いらしい。
となると、この母の「私の物語」はもはや
母の頭の中だけにしか残っていない映画だ。
母は何度も何度もこの映像を再生し
「私の物語」を語る。。。
いくら過去の、学歴、稼いだ額、地位や名誉、
若い頃の美貌を誇って、そこに執着して
自分のアイデンティティの拠り所としても
半世紀もすればそれは間違いなく
自分の頭の中だけに残る単なる映像に過ぎなくなる。
あなたもちょっとここで目を閉じて思い返してみて・・・
自分のアイデンティティの拠り所としてた出来事は
今ではもう、自分の頭の中にだけ残る映像に
過ぎないことをきっと実感するんじゃない?
結局「自分」とは私たちが後生大事に
保存している頭の中にある映像とセリフの集まりに過ぎなかった?!
もし私たちがこの映像への執着を手放して
Deleteボタンを押したらどんな事が起こるかな?
きっと・・・
今まで自分だと思ってたものに、しがみつかなくなるよ!
きっと・・・
ちっぽけなプライドから開放されて心が自由になるよ!
きっと・・・
これからは人生で起きることに抵抗したり
未来を思い通りにしようと思わなくなるよ!
シークレット「思考は現実化しない?」
きっと・・・
「私の物語」を一番近くで観てくれていた
本当の自分に出会えるよ!
本当の自分は現れては消える無常の
映像じゃなかったんだね!
それは、私たちが生まれてからずっと
そばにいて私たちの人生を映しだしてくれていた!
さあ、映像のリピートボタンは止めて
気づきの意識の中に寛いで人生を観賞しよう