先日始めた「引き算の瞑想」についてストーリー風に記録中♪
なぜ書くか?と言われれば、悟りに至ったという手記は世の中に
あまたにあるけれど、途中の過程は端折って突然
公明を得たみたいな感じでどうも分かりにくい。
でも私たちが本当に知りたいのは、一体どうやって
悟りに至ったのか?についての具体的な方法。
という訳で、多くの人を悟りに導いたこの瞑想方法が
本当に効果があるのか?もしあるとすれば、どんな経過を辿ったのか?
凡人の一ケースについて、その記録を残すことにした。
少しでも同じ思いを持つあなたのお役に立てたら嬉しいな
◆一瞥💓【在宅解脱しよ♪4】
あなたも瞑想をちょっとでもかじったことが、あるなら
分かると思うが、初心者にとって瞑想は実に退屈だ。
朝子も例にもれず、撮りためた心の写真を消す作業を
長時間行うのは困難だった。
ゴルフだって初心者のうちは、ティーアップしたボールをチョロっと
前に転がすのがせいぜいで、芯に捉えることが出来るまでは
その醍醐味は味わうことは叶わないように、
瞑想も「アハ体験のような気付き」「シッディと言われる超感覚体験」
などの当たりくじをたまには引かなければ楽しくないだろう。
瞑想を始めて3週間。正直朝子も何時まで続くのか分からない
この地道な作業の繰り返しに少々疲れ気味で、
瞑想の途中に意識が宙を舞い、夢の世界に入り込んだりしていた。
そんな日々のある朝、息子が志望校の進路についての
提出書類をいつもながらに、朝ギリギリになって、
確認してサインしてと慌ただしく鞄から出してきた。
朝子も電車の時間が迫っていたので、濡れていたのに気づかず
キッチンの流しの横において無造作にサインした。
書類は濡れて、サインは滲んだ。
その日の晩、朝子が帰宅すると朝持たせたはずの
書類がダイニングテーブルの上に置いてあったのを見て
「なんで進路の書類出さなかったの?!」と朝子は声を荒げた。
すると息子は「あんたのせいで新しい書類をもう一回
再提出することになった。サインぐらいちゃんと書け!」
そう反論してきた。
「え?、そうだったの~。そっか!親に見せないで
自分でサインしたと思われたんだ・・・(汗)
そりゃ、ごめん、ごめん。先生、汚い字だったから
まさか親のサインとは思わなかったんだ・・・」
朝子はちょっとバツが悪いと感じつつも
「サイン位多めに見てよ~本当に親が書いたんだから・・・」
小さな声で呟き、朝子は心の中で先生に反発した。
翌朝目を醒ますと、まだ6時までには30分位あったので
布団の上で屍(シャバーサナ)になり「引き算の瞑想」をした。
すぐに昨日の、サインを巡ってのやり取りが蘇ってきた。
最初は昨日の続きで「多めに見てよ~」と心の中で言いかけたが、
すぐに「あ!先生は息子に自分の進路にもっと責任を持って
大切に考えて欲しいという、生徒への愛から再提出させたんだ!」
そんな風に心の声が入れ替わった。
すると、ハートチャクラからエネルギーが放射され
周囲の空気に溶け込みエゴの狭い心の世界を突き抜けて、
自分の意識が拡大していくのを感じた。
理由もなく満たされ幸せを感じた。
しかしながら、子どもたちが起き出してきて喧騒が戻ると
程なくしていつもの意識に戻って行った。
おそらくこれがOSHO等の公明を得た者が言っている
宇宙意識の一瞥だろうと考え朝子は、ガイドの徳山氏に聞いてみた。
徳山氏もそれは宇宙意識に繋がった瞬間で
瞑想を続ければ必ず、エゴが消え最後は
宇宙意識が残り生死の境がなくなる。
これから、どんどんそうした瞬間が増えていくと、
朝子の体験を裏付けてくれた。
朝子は徳山氏の裏付けに「やったね!」と、心が浮足立った。
しかしながら、「解脱に期待しすぎると執着に繋がる。」
徳山氏はそう釘をさした。
だが、欲望がなくなるなどということがあり得るのだろうか?
朝子はヨガスートラに書かれていたこんな一節を思い出した。
(インテグラル・ヨーガから抜粋)
だが、欲望がなくなるなどということがあり得るのだろうか?
いや、実際にはそんなことはあり得ない。心というものが
そこにあるかぎり、欲望することがそれの努めである・・・。
それは矛盾しているように見える。それを解く鍵は、私的な
あるいは利己的な動機のない欲望はどんな欲望でも
あなたを縛らない、ということだ。それはなぜだろう?
純粋で無私な欲望には、期待というものがまったくない。
だから、結果がどう出ようとも、失望を知らないからだ。
だが、何も期待してないとはいっても、それなりの報酬は
あるのである。誰かを幸せにすれば、その人の嬉しそうな
顔を見て、自分自身も嬉しい。
もしあなたが本当に、ただ与えるためにのみ与えることの
喜びを味わったことがあるならば、そのような喜びを
何度でも得ようとして、そうした機会を貪欲にもつだろう―
ほとんどの人は、何もかも棄てて無私・無欲になると
何の楽しみもなくなってしまうのではないかと考えている。
それは違う。あなたは最も幸せな人となる。
奉仕すればするほど、あなたはより大きな幸せを味わう。
そういう人が人生の秘密を知っているのだ。
何もかも失うこと、すべてを与えることには、大きな喜びがある。
物を持っていても、永久に幸せであることはできない。
持てば持つほど不幸になる。億万長者や地位の高い人たち、
首相や大統領とかいうのを、あなたは知っているだろう。
彼らは幸せだろうか?否、地位が高ければ高いほど
煩わしさも大きい。聖者や世捨人だけがいつも幸せなのだ。
失うものが何もないから。何も持たないからこそ自己を持つ。
それが秘訣なのだ。だから、「平静を持て、無執着を持て」と
言うのだ。世俗的な事柄を捨てることによって、あなたは
最も貴重で聖なる富、自らの平安を持つ。
(一部抜粋終了)
朝子はこの一節を思い出しながら、「利己的な動機のない
解脱に対する欲望・・・?」朝子の頭の中は「?」マークで
一杯になったが、ヨーガ・スートラの続きを思い出した。
(インテグラル・ヨーガから一部抜粋)
犠牲的献身の人生を送るべきというならば、
私はどうやって食べていけばいいのだ?
どうやって衣服を得、住むところを得たらいいのだ?
それらのものは、他者に奉仕するための
自分自身の備えとして持てば良いのである。
あなたには、また明日の朝も元気で他者への
奉仕に出かけられるように、
ゆっくり休むためのベッドがいる。
他者に奉仕するための十分なエネルギーを
得るためには、食べねばならない。そのように
何をするときでも、「私は他者に奉仕するために
自分自身を整えているのだ」という思いでもってやる。
瞑想をするときでも、それは自分だけの平安の
ためではない。安らかな心で外に出て、十分に
奉仕できるようにするのだ。
他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。
そうだ、そのときにはヨーガの瞑想さえも
無私の行為となる。そしてそれが、
「神に対してさえ執着するなかれ」の意味なのだ。
無執着だけがあなたの全人生を喜びに満ちた
ものへと帰るに足るのである。
(一部抜粋終了)
朝子はこの愛に溢れる「ヨーガ・スートラ」を手元に置きながら
「引き算の瞑想」を実践出来る幸運を噛み締めた。
悟りは自分だけのものと考えるのは、非常にエゴイスティックだ。
ガイドの徳山氏のように悟った者の内側から溢れ出る光は、
暗い海を照らす灯台の光のように、周囲を明るく照らす。
朝子の「悟りに対する過大な期待と執着」は少しずつ溶けていった。
(続く・・・)
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